森遊さんのこだわりをもつ自慢の年賀状の作り方と年賀状へのこだわりをエッセー感覚で。

森遊さんの私の年賀状作法

パソコンとプリンタと年賀状

 

●森遊さん
いかにだるく人生を過ごすかが命題の専業主婦。年賀状作りが年末の最大の楽しみ。三人娘の母。イケメン好き。ジャニーズ好き。パソコンのメモリ増設が好き。つまり、変わり者。
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その昔、私が子どもだった頃…

年賀状を出す事は日本の常識だった。現在は、年賀状を出さない若者が多い。携帯メールで「おめでとう」と伝えるのが主流のようだ。あまりにも主流になりすぎて、大晦日0時前後はdocomoやauなどは「メールを控えて下さい」と告知するほどの回線混雑ぶりだ。そういう時に控えなければならないのなら、携帯を持っていても活用できていないと思うのだけど…。

私が子どもだった当時、ほとんどの年賀状は手書きだった。宛名も裏面も手書きだ。字を書く事に自信がない私にとって、これは苦痛だった。しかし、子どもの出す年賀状の数なんて知れている。苦痛も、ほんの少しだった。

23才で結婚した。結婚すると、係累が増える。とたんに、年賀状を出す枚数が激増した。おまけに、夫は商売を始めた。顧客への年賀状は、大切なものだ。残念な事に、夫は私の上を行く字の下手な人間だ。おまけに昔気質の亭主関白ときている。面倒な事、雑用は、全て妻がするものという考えだ。

結婚当時、年々増え続ける年賀状の数に辟易していた。子育ても忙しい。調子に乗って3人も産んでしまった。年賀状を書く時期は、12月。寒い。当然、子どもたちは風邪をひく確率も高い。子どもの看病と年賀状書き、そしていつもの家事。正直いって、12月が来るのが怖かった。

幸いな事に、その頃から裏面は印刷業者がデザインした物が主流になっていた。いくばくかのお金を支払って裏面は印刷屋さんに頼み、宛名だけ書いていた。もちろん、裏面の「ひとこと」くらいは書いた。どの年賀状も、同じ文面の「ひとこと」だったけれども。その頃、年賀状は私にとってそれほど大切なものでも、思い入れが深いものでもなかった。私が現在のように年賀状作成に「はまる」ようになったのは、パソコンの存在があればこそである。

忘れもしない、1997年、私の生活は一変した。

1995年から1997年にかけて、ちらほらパソコンでインターネットをする人が出てきたのだ。それ以前は、IT関係の仕事の方やマニアックな方のものだったインターネット。それが、この頃から一般の人たちが関心を向けるようになった。私の元にも、プロバイダー契約をしてパソコンをやらないかというお誘いが来るようになった。1996年に誘われた時は、即座に断った。全く興味がなかったのだ。「なぜ、興味がなかったの?」と問われても、理由はわからない。とにかく、興味が持てなかった。

それなのに、1997年の11月、私は突然「パソコンを買おう」と決心した。突然、パソコンに対して興味がわいたのだ。自分でも、何故かよくわからない。とにかく、パソコンを買いたくなった。ただ、パソコンを買う第一の理由に「パソコンで年賀状を作る」という目標があった。そしてもう一つの重要な理由は「インターネットをしてみたい」だった。

1997年当時、インターネットは電話回線を使ってするものだった。市内に電話をかける通話料と同じ金額が、インターネットにつなげると課金された。こともあろうに、電話回線を使ったインターネットで、月に2万円以上は支払っていた。

専業主婦にあるまじき行為だった。

1997年11月、悩みに悩んだ末「Performa5410」を購入した。年賀状作成が目標なのだから、プリンタも買った。エプソンのインクジェットプリンタは、とても高かった。Performaとプリンタで30万円くらいかかっただろうか?夫が、誕生日プレゼントとして買ってくれたのだ。そうだ、当時は(うちだけ)バブルだったのかもしれない。夫は夫で休みの日は楽しんでいたので、多分その罪滅ぼしに私にパソコンを買い与えてくれたのだろう。

パソコンを手に入れたとたん、私の生活は一変した。ほとんどパソコンの前で過ごす日々が、数年間続いたのだ。現在も、パソコンと密着した生活をしている。もうパソコンなしの生活は考えられない。

まず、第一の目標を達成するために、年賀状作成に挑んだ。まさに、「挑んだ」のだ。パソコンの事などまるっきりわからない一介の主婦だ。タイピングも「なにそれ?」な初心者が、年賀状をパソコンで作ろうとするのは、非常に大変な無謀な事だった。