年賀状博士がエピソードで綴る年賀状の歴史的事実と発達の経緯

エピソードで綴る年賀状の歴史2/4

明治以前の年賀状

年賀状の起源は古くは奈良時代までさかのぼります。当初は貴族の風習であったものが、江戸時代になると武士の間で取り交わされるだけでなく、寺子屋での教材にも年賀の文例が採用されるようになり、江戸末期には木版刷りの縁起物と一緒にあいさつ文が印刷された年始用の刷り物も販売されるようになります。明治になって、近代郵便制度が整備され、明治6年に郵便はがきが発行されると、回礼(各家を回って、新年のごあいさつをする)が簡略化され、年を追う毎にはがきによる賀詞の交換が盛んになっていきます。

近代郵便制度の発足と共に少人数の人たちは年賀状を出し始めたであろうと考えられますが、実例はあまり残っていません。

年賀状についての新聞記事(明治14年〜32年)

(ていぱーくホームページより)
●中外郵便週報 1881-0103(明治14年)
「郵便局員は屠蘇気分で正月を祝っていると世の中の人は思っているが、実は元旦にポストの差入口よりあふれんばかりの取り集めている…」

(以下資料提供・林丈二氏)
●改進新聞 1884-1201-1(明治17年)火曜日
「大蔵省印刷局にては、来年一月の年始に使用するため、日の出松などを彩色せる年始郵便端書を発行さるる趣きなり。」

●時事新報 1885-0108-2(明治18年)木曜日
「毎年一月一日、東京市街郵便物の配達は、ただ一回なりしが、本年よりは三回を増加して、午前に二回、午後に二回、都合四回になりたり」

●絵入自由新聞 1885-0108-2(明治18年)木曜日
「年始状増加、年々各地より横浜港に達する年始状は三万枚前後なりしが、本年は大いに増加し六万枚以上に昇りしという」

●時事新報 1892-0102-4(明治25年)土曜日
「郵便年札の違礼 近年年始の回礼を略し、郵便に託して新年を賀するは多事なる当世には適当の方便なるも、未だ新年に入らざる年末中、早くも謹賀新年の郵便を発するより、まれには旧ろう中年始状の先方へ達したる箇所もありしよし。守旧家にはこれを違礼なりと言うもありしと」

●都新聞 1894-0105-6(明治27年)金曜日
「三日間の郵便物 東京郵便電信局において一、二、三の三日間市内に配達せし信書の総数は
一日、四十万一千八十四通
二日、五十万一千四百四十三通
三日、四十七万三千六百九十通
にて、これを昨年一月の三日間に比するに、昨年は三日間において三十八万以上に上りしことなかりしも、本年は四十万以下に下りしことなし。しかして昨年は十五名の掛員のところ、臨時二名の補助員を雇入れ補助せしも、本年は十五名限りにて補助をば雇入れざりしよし」

●読売新聞 1899-0108-4(明治32年)日曜日
投書「何事も簡便の世の中ながら年始状の活版刷なると肉筆なると、そを受けたる人の感、何(いず)れか深き。(感慨生)」