渡辺幸彦さん
東京在住。75才(男性)
昔から年賀状の時期になると、謹賀新年、賀正、新春のお慶びを申し上げます。などに始まり、中間には、お世話になりましたとか、最後に皆様のご多幸をお祈りいたしますで終わる定番の物が90%で、何か物足りない気がして仕方がなかった。その中に、二、三通、目が留まり楽しく読ませていただく年賀状があるのに気がつき、その後も三百通ほど頂く中にやはり同じ人からのが他の人達と違っていて、その人のキャラクターがわかり面白く感じて、そうだ、皆さんにもそんな年賀状を出したら印象に残るだろうし、人間関係も良くなるだろうと思い、一捻りする事にした。
とは言ったものの、二百字程度しか書けない小さい葉書の中に表現するのは至難の業だと感じた。一旦決めた以上は引き下がれない気持ちになり、何しろ目につく文章を書いて出してみて反響を待つことにした。遅れて年賀状をくださる人から楽しい年賀状ありがとうなどと書かれていて、やったーと内心嬉しくなり、その後は拍車が掛かり何とか様になったような気がしてきた。皆さんからあなたの年賀状を楽しみにしていると書かれてくるのが毎年多くなり、なおさら効果を期待して書くようになった。そんな手紙を戴くと嬉しいのは良いが、もっといいものを書かなくてはと思い、プレッシャーになり、十二月になると落ち込んでくるようになった。
それからは余り難しく考えないようにし、自分のそのままの普段の事を書いて、ちょっとひと皮むけたことを付け足して書けばよいかと自分だけが納得するようにした。面白いことに、お得意さんから今まで社長などと呼ばれていたが、だんだん「ナベさん」と親しみをこめた呼び方を受けるようになって、自分の人柄を出したのが効果を呼び商売にも影響が出てきて、売上げも多くなった。
そんなことから営業会議で社員のみんなにも話し、何しろお得意さんから可愛がられるように何かに付け努力しようということから、まずは会社でも、お得意先でも社員の姓を呼ばず名前を呼び、皆さんに印象をつけること、年賀状も一般的なものは書かないで、自分を売り込む為の内容を書く努力をする事にした。得意先に正月の挨拶に行ったある重役から「お前のところのMは、除夜の鐘がなると(おめでとうございます)と電話をして来るんだ。やっと気持ちよく眠ったところにだよ」…とは言っているようだが、何か文句ではなく、親しみをこめた笑顔で言っているのを見て、Mの奴やったなと内心嬉しく思った。
商売敵の会社の人から聞いた話だが、F会社の社員は、得意先の重役からも名前を呼ばれていて、そんなに親しくしているのかと思い、鼻から勝負があったと思われてくるようになった」年賀状からも効果があり、時にすると社員が得意先の重役さんに昼食をご馳走になっている情景を見るのが多くなった。当然営業成績も上がり、みんなの顔も笑顔が耐えなくなり、営業の一番大事な笑顔で接することが自然に出るようになったのは喜ばしいことだ。
最近は戴く中にちょっと変わったものが増えてくるようになった。テレビで見たのだが、恒例になってはいるが、みんなが無駄だといいながらやっている香典返しを無くそうと、香典袋に生活系と書いたのを使うと、受付が違ってお返しが無く、寄付などの返信も要らない地域が出来たのは素晴らしい事だと思う。我が家も今年は不幸にも姉と兄が天国に召されて、喪中の葉書を書かなくてはならなくなり、そうだ喪中にも失礼にならないように注意すればいいから、新しい形で出そうと女房にも了解を得て書いてみた。
日本文化は大切にする気持ちは勿論だが、時代も進み無駄を省くことは良いのではないか、変えていってもいいのではないかと思う。父が生前、四十五才までに誰からでも頼まれごとをされたら、電話一本で用が足せるようにしておけ、それには人脈、心脈を築いておかなければならない。いつかは世話にならなければならない人のために、誰でも好かれ親しくなっておけ、といわれてきた。
そのお陰で七十六才になっても友人が多く、東日本の災害支援のバザーに多くの品の寄付を頂き九月二日のチャリティーコンサートを夫婦二人三脚でチラシ配りをし、家族のみんなにも協力を得て、約千人の賛同者により義援金も集まり、十月四・五日に義援金と物資を車二台に積み、仲間で作ったハワイアンバンド、健康で長生きをモットーにしたその名を(アロハオタッシャーズ)の仲間も帯同し、被災が一番多かった宮城県名取市の仮設住宅集会場に慰問演奏旅行にいけたのは、年賀状の書き方を変えたことが発端になったと思う。