小宮山蘭子さんの自慢の年賀状の作り方とこだわりをエッセー感覚で。

小宮山蘭子さんの私の年賀状作法

筆ペンと年賀状

書が達者だった父

私の父は、私が小学校低学年の頃、突然脱サラをして「看板店を始める!」と言い出しました。もともと頑固者で正義感が強く、融通のきかない人でしたから、企業に雇われるより自分でコツコツと何かに取り組むような“こだわり職人”といった生き方が向いていたのでしょう。不器用なところもたくさんあったけれど、一本気で嘘が嫌いで、「弱きを助け、強きをくじく」が服を着て歩いているような人。それなのに、娘には甘く、とても優しい父。私は、そんな父が大好きでした。

書が達筆で、絵も得意でしたから、看板業はまさに父の“天職”とも言えるものでした。父のように字がうまくなりたくて、私も小さい時からずっと習字を習っていました。子供の頃習字の塾に通っていても、小学校高学年になり中高と進んでいくと、勉強が忙しくなったり他のことに関心が向いたりして、多くの人がやめていきます。けれども私は、大学に進学して一人暮らしを始めても同じ先生に通信教育で書を習い続け、社会人になり多忙になっても、ずっと書道に携わる生活をしていました。それでも、父の腕にはどうしても追いつけませんでした。

父は何か特別な書道教育を受けたわけではなかったのに、その字の上手さはまさしく“天賦の才能”。私の幼い頃には私と同じ先生の書道塾に足を運び、昇段試験などを受けていましたが、他の人の半分の年数であっという間に師範にまでのぼりつめてしまいました

父の書いた年賀状

そんな父の書く年賀状は、やはり独創的・芸術的でした。年末になると、こたつを囲んで家族がそれぞれの年賀状を書くのが恒例でしたが、父の書く年賀状には、定番の「謹賀新年」とか「賀正」とかいう文言はほとんど書かれていなくて、芸術的な一文字〜三文字がハガキいっぱいに躍っています。

今でも覚えているのは、ある年に書いていた「萬年春」という語句。この三文字が、ハガキいっぱいに重厚な筆致でしたためられていました。その、黒い墨で書かれた字と白い空間のバランスはまさに小さな水墨画のようでした。一方で、父は、娘たちがどんなに平凡でありきたりな年賀状を作っても、鉛筆で乱暴に書きなぐるようなハガキでも、口出しすることなく、「うまい」と目を細めていました。少し大人になって私も筆ペンで年賀状を書こうと決意した時、母や妹は「癖があって、上手いか下手だかわからない字」と笑っていましたが、父だけは「すごくいいぞ」と褒めてくれました。今でも筆や筆ペンで文字を書くことに抵抗がないのは、幼い時から書道を続けていたことと、こうしていつも父が励まし続けてくれたおかげだと思います。

まかされた年賀状

大学を出て、私が最初に就職したのは、弁護士さんを数人抱えた、大きな法律事務所でした。当然、事務局にも同年代の女性事務員が何人かいましたが、数年勤め続けているうちに、私は所長弁護士さんの秘書のような業務を任されるようになりました。ある年、その所長の年賀状制作を私が担当することになりました。裏のあいさつ文などは印刷所にお願いすることになりましたが、宛名書きは「君に筆で書いてほしい」と言われました。とても実力のある有名な弁護士さんで、多くの方と交流がおありでしたから、その枚数も半端ではありません。実に、1500枚。中には、誰でも知っているような有名人や各界の大物もいて、身が引き締まる想いでした。その宛名書きを、すべて私一人で書くことになったのです。

師走の慌しい時期、他の業務と並行して関わっていましたから、勤務時間内にはとてもさばききれず、家に持ち帰り深夜になるまで書いていました。ペン先の固いボールペンなどに比べて、ソフトな筆でのタッチは負担が少ないほうだと思います。それてもさすがに、目は充血し、肩は凝り、最後は右手があがらなくなりました。けれども私は、ちっとも苦痛を感じなかったのです。

そういう仕事を任されたことを、父はきっと喜んでくれるだろうと思いましたし、所長に対しても、私を信頼してくれ重要な役割を与えてくださったことへの感謝でいっぱいでした。数日かかって1500枚書き上げた時、所長はとても満足してくださり、「本当にありがとう」と、特別ボーナスを支給してくれました。そのボーナスで、1月1日の父の誕生日にセーターを買った記憶があります。